絣とikat

絣とikatについては、トップページの「絣ラボ」にて概略ご説明しておりますが、やや説明不足かと思われる部分もありますので、あらためて説明を付け加えることにいたします。

まず「ikat」の語源についてです。当サイトでは、マレー語源と解説しておりますが、インドネシア語源やインド語源との説明もありますので、戸惑っておられる方もいらっしゃるかもしれません。長文になるのを避けて参考文献を省略しましたが、染織研究家小笠原小枝氏のご著書(「日本の美・絣」「日本の絣・展」カタログ)を参照させていただきました。

他の絣研究家のご著書もいくつか拝見しましたが、語源の由来とその命名者(スイス、バーゼル博物館館長であった故Dr.ビューラ)のお名前まで記しての詳しい「ikat」語源解説は、小笠原氏のご著書以外では目にしておりませんので、小笠原氏のお説を紹介させていただきました。「絣ラボ」は専門的な絣研究サイトではございませんので、詳細まではご紹介しておりませんでしたが、参照させていただいた上に、その優れたお仕事に敬意を表する意味でも、小笠原氏のお名前はご紹介すべきでした。

またマレー語は、マレーシア、シンガポール、インドネシアで使われている言語だとのこと。インドネシア語はマレー語に由来しており、両者はよく似ているとのことですので、インドネシア語源としても間違いではないとは思いますが、インドネシア語の由来からしますと、マレー語語源説になるはずですね。

インドでは非常に多くの言語が使われているようですが、代表はヒンディー語。ヒンディー語とマレー語は似ているのかどうかは、わたしには分かりませんが、世界の絣を探訪している絣の専門家のお一人は、インドとインドネシアはともに絣をikaと表記すると書かれています。おそらくインドでは、ikatが世界共通語になってからの使用ではないかと思われますが、ikatの語源については、小笠原氏説をご紹介させていただきます。

また、絣そのものの起源についても複数説があります。小笠原氏もこの点については複数説を紹介されており、確定的な判断は示されていません。他の専門家もほぼ同様に複数説を紹介されていますが、複数説をご紹介すると長文になりますので、インドで世界最古の絣関連の遺跡が発見されたことや、インドでは、そして後には日本でも広く普及していた経緯絣が、インドネシアでは特定の一地域でしか織られていないということから、わたしの素人判断でインド起源としてまとめました。

しかし専門家のほとんどが、絣の起源についてはインドかインドネシアかを明確には特定していない中で、素人がインド起源であるかのような、断定的な書き方をしたのは軽率だったと反省しています。

専門的な研究サイトではないとはいえ、絣専門のサイトである以上、絣をめぐる基本的な認識については、ある程度の正確さは備えておくべきだったと思います。この反省の流れの中で直面しているのが、当サイトでご紹介する絣の基準についてです。

絣も近代化以降は機械化が進み、昔ながらの手作り品は価格競争に負け、市場から駆逐されるという憂き目に遭ってきました。伝統工芸品の伝承を推進する国の支援もありますが、十分なものではありません。基本は絣製造業者や個々の作家の努力にかかっているわけですが、自力での事業継続のためには、機械化の導入もやむなしという判断に至る場合も当然出てきます。ただその機械化の導入にも様々な段階があり、全面機械化や海外委託生産のみならず、ごく一部を機械化して手作り感を残しながら事業の継続を図るという、複雑な選択もあるわけです。

絣といえば、これまでは、伝統的なオール手作りによる絣生産がテーマになってきたように思います。全行程を手作りされた絣は、その風合いも含めて確かに非常に美しい。しかし、オール手作りの絣だけが真性の絣だとみなして、それ以外の絣は非真性、つまりは偽物だとみなして無視することが、絣にとっては喜ばしいことなのかどうかという迷いが生じます。少なくともわたしは、この迷いの渦中にああります。

しかしその一方で、非常な重労働である糸染めも含めて、オール手作りで絣を作っておられる事業者や作家の方々にとっては、機械も手作りも同列だとされたのでは、とうてい納得はできないはずです。当然です。そして従来の絣に関する書物のほとんども、手作り絣に焦点を当てています。

絣の伝統技は、こうした手作り絣の事業者や作家の方々によって伝承されてきましたので、その事業の継続を支援するためにも、手作り絣に焦点を当てるのは当然すぎるほどに当然です。しかし絣の間口を広げることも、絣や伝統的な染織に対する、人々の関心を高めるきっかけになるのではないかとも思われます。

近代化の果てに、人工物が氾濫するに至った現在、人々は逆に天然自然のものを求め始めています。環境破壊が進む中、環境保護のためもあるとはいえ、こうした動きは、生物である人間の感性が求める不可避の欲求ではないかとも思われます。

絣の行く末も、同様の視点に立って眺めてみてはどうかとも思っています。

2019/05/08 絣ラボ 久本福子

2019年05月08日